BLOG店主日記

正座

茶の湯の鬼門ともいうべき正座。

色々と合理的に作られている茶の湯の作法のなかでも、もっとも弁護しづらいもの。

審美的には、やはり美しいとおもう。

人体がコンパクトにまとまるし、凹凸が少ない。茶室の気を乱さない。

けれど不評も多く、悪習であるとみる向きもあろう。

ぼくもその点では肯定しえないでいたが。。。。

先日とあるお客様に「ととのう正坐」というのも教えて頂いた。普通の正座(というのも変だが)と全然違うらしい。

野口体操の系譜に連なるお方のようである。今度僕も参加してみようとおもっている。

茶の湯は茶室+正座を前提に構築されているから、それを崩すとそこからの再構築が結構難しい。

単に掘りごたつにして、半東が運ぶようにするとか、そういうのはあまりいいとは思わない。

一変えたら十変えないといけない。

細部と全体は不可分なのであり、細部こそ全体であるので、細部をかえたら、全体を変えないと、全体が変わらないと、それは嘘である。

ぼくは基本的に立礼がすきでないのも、あれは半分くらいしか変わってないからである。

その意味で、もし良い正座と悪い正座というものがあり、そして良い正座が身に付けられるものならば、まずすべきは茶室を変えたり、座椅子を使ったり、立礼をするのでなく、良い正座を身につけるというのが、茶の湯の稽古の基本となるべきではないだろうか。

身体への負荷よりも美が勝るという価値観は良い。だが、身体への負荷が減るならば、それを試してみれば良い。負荷自体は美徳ではない。ただ美に対して跪くというのは美徳として存在しうる。

ただ人にたいして何が何でも正座しろ、とは言えない。しかし、自ら「やっぱり結局正座しかないな、、、」と諦め、それを把持する人、以外と、茶室のなかで、本当の一座建立が出来うるのかは、大いに疑問の残るところである。

茶の湯とは?

茶の湯とはなんぞ?

色々な考え、捉え方がありますが、今回は中国茶との比較で。

とある作家さんから中国茶(を茶の湯に組み込むこと)の示唆を頂き、最近勉強というか、飲み始めています。

5-10年前、たしか武蔵小杉の?、中国茶屋さんで飲んだお茶が美味しくて、しかしそれ以来全然飲んでなくて。

最近上記のヒントに加えて『中国茶のこころ』という本を読み、素晴らしかったので、あらためて中国茶の世界に飛び込んだ次第です。

さて、中国茶は味を大事に考えます。まあ嗜好品たるお茶やコーヒーはもちろん味が大事です。

しかし、茶の湯では闘茶という前史を踏まえ、味については不問というスタンスです。

これは結構驚くべきことではないでしょうか。

抹茶(濃茶薄茶)は嗜好品としての立場を捨て、茶の湯のフィールドにおいては、他のものと同格という扱いに退いているようにみえます。

茶の湯においては道具組、設えが大事で、かつ、「茶を飲むという行為そのもの」が大事であり、味については、価値として最上位にくるものではない。

いわば主従の関係が反転しているようにみえます。この価値転倒を可能にしたのは禅の思想や、時代背景など、

いくつかの要因が考えられそうです。そしてそこにこそ茶の湯の肝がある。

道具道楽はこの反転のいわば堕落した形態なのでしょう。道具は大事だけれどもそれに淫してはいけない。

飲んでも飲まれるな、というやつですね。

茶の湯が紛いなりにも数百年続いたのは、家元制度などにも因るところがありましょうが、この味を捨てたという思想の故ではないかとも思えます。

味は大事である。けれども大事ではない。

この意味をもう少し考え続けたいなと思っています。

さてここで問題になるのが、中国茶を茶の湯に組み込むという話。形式的にも、思想的にも、整えていかないといけません。

池塘春草生

禅では草むらは煩悩の象徴とされ、悟りの境地は冬の冷え枯れた景色によって表されるようです。

煩悩の否定、超克という意味で、冬の冷厳とした風情が好まれるのですね。

そうなると、春という生命の芽吹く季節は、欲望が首をもたげる季節でもあって、好ましくない。

ただ、その自然に備わった煩悩をただ否定するのではなく、自然な色気として受け入れてこそ、より高い境地にあると、この語は伝えているようです。

あるいは修行の厳しさを周りや他者に強いるようにして、場を冷え固まらせる。それも、悟ったようでいて、独善的な態度である。だから、自分には厳しくも、場を和ませたり、柔らかくすることができるのが、本当の覚者だ、という意味もあるのだとか。

平たく言うと、思いつめすぎてはいけないよ、、、ということでしょうかね。しかし、これは一度も思いつめすぎたことの無い人間が、軽々というべきことではない、とも思いますので、まあ、とにかくいろんな経験を積みましょうと、そんな落とし所で解釈しております。

冷泉為恭

2023年、あけましておめでとうございます。離岸がオープンして早7ヶ月、色々な出会いがありました。ギャラリーをやっていて楽しいのは、作品ももちろん好きですが、お客様とお話するのが楽しいのだと気づきました。というわけで本年も離岸にお越しいただけますと嬉しいです。

さて、新年、掛け軸は子の日の遊び、松の根曳きのものを飾っています。作はタイトルにもある冷泉為恭(れいぜんためちか)。

主題となっている子の日というのは十干と十二支を組み合わせた六十干支で表される日付のなかで、新年最初の子の日のことです。です、とかさも当然知っているかのように書いていますが、当然調べながら書いています。茶の湯は本当に日本の文化の宝庫というか、色々知らないことがわんさか次から次へと出てくるので、大変です。離岸を始めてから初めて知ることばかりです。

で、子の日、2023年でいうと、1/6が甲子で最初の子の日ぽいです。つまりこれを書いている今からすると、明日ですが、明日松林に行き、赤ちゃん松を引っこ抜いて、その根の大きさ、長さなどで占う遊びが子の日の遊び、松の根曳きです。転じて、根っこ付きの松は縁起物とされるようになったようです。

松の根っこを引っこ抜いて何が楽しいのか、いや、実際にやってみたらそれなりに楽しいのかもしれません。とにかく平安時代の貴族の遊びとは、かくも高雅なものであったかと、感嘆の念を禁じえません(庶民もしていたという説もあり?)。

そんなことを昔の人々がしていたのは、娯楽が今に比べて圧倒的に少なかったから、、というより、人間と自然の関係性が、今とはだいぶ異なっていたからだと推察します。丸谷才一の『後鳥羽院』という本がありますが、その中で考察されていることとはなんとなく、松の根曳きという遊びの中に当時の人々が見出していた感覚を類推するヒントがあるように、今ふと思いました。どういうものか、うまく言えませんが。

そして本題である冷泉為恭のことですが、冷泉家というのは平安末期から続く公家の家系です。今も宮中と並んで歌会をするなど、貴族文化を継承するご由緒あるお家柄です。しかしこの冷泉為恭は、なんと冷泉家の人ではありません。つまり貴族でもなんでもありません。自分で勝手に冷泉と名乗っているだけです。何故なのか。

もうだいたいウィキペディアの知識になりますが、冷泉為恭は1823年、狩野派の絵師の家に生まれました。親は狂言師になってほしかったようですが、為恭は復興大和絵師を志します。

大和絵というのは典型的には源氏物語絵巻などの絵ですね。日本が大陸の影響を脱して、独自の文化を形成していく時代に、絵画でも日本独自の美意識に基づく様式が生まれ、そのため自負をこめて「大和」と冠したのでしょう(当時は様式ではなく題材による区別だったようですが)。そして復興大和絵というのは、近世において、平安・鎌倉時代の大和絵の復興を目指すものです。

為恭の頃、大和絵には土佐派など伝統的な絵師がいましたが、形式的になっていて、つまらない絵だったようです。つまりそれは本当の「やまと心」を表現したものではなく、まがいものだと意識されていたのでしょう。そのような状況を憂えた絵師に田中訥言という人物がいて、彼が復興大和絵の第一人者だということです。

その田中訥言に、冷泉為恭は私淑し、独学で各地の絵を模写するなどして、王朝美意識を復興させるべく絵を書き続けます。狩野ではなく、冷泉と名乗ったのも、我こそが、真に王朝の美を継承するものであるという信念(思い込み)があったからだと思われます。

冷泉為恭は1850年に岡田家という天皇の秘書的な家系の家の養子になったのですが、これもやはり王朝への憧れからなのでしょうか。冷泉為恭の王朝への思慕は徹底していて、住居、衣服、生活様式も王朝風にして暮らしたそうです。

なにが彼をここまで王朝に熱狂せしめたのか、知るよしもありませんが、開国をせまる外圧のなかで、なにか日本人としての精神的支柱を求めたのかもしれません(黒船来航が1853年)。それだけではもちろん説明がつかないわけですが。もちろん、平安時代の貴族文化の独自性、華やかさ、そして文学性は(僕はほとんど知りませんが)素晴らしいものなので、憧れ、追い求めるという気持ちはわからなくもありませんが。

ところで為恭は晩年は尊皇攘夷派の人間からスパイだとみなされ、逃げ隠れるために僧侶になったり、ニセの自分の墓をつくったりまでして、逃亡生活を送りましたが、結局追手に殺されてしまいます。幕府側のところに出入りしていたことで嫌疑がかかったようですが、これは絵を模写するためだったそうです。

僕は(飾っておいてなんですが)平安の宮中の文化、王朝文化にはさして興味はありません。しかし、この冷泉為恭はとても興味深いと思っています。

一口に日本文化といっても、平安の貴族文化、武士の文化、町人文化など、様々ですね。茶の湯はこのいずれとも関係しています。

四畳半について

茶室の基本の大きさといわれる四畳半。離岸の茶室も京間の四畳半となっています。

侘び茶の開拓者、村田珠光(1422-1502)が定めたと言われています。

茶の湯でいうと、小間としても、広間としても使えるサイズ。起源について問うても詮無いほど、使いやすい、丁度いい広さであるこは確かですね。

今日まで四畳半がスタンダードとなっているのは、思想的な面から受け継がれているというよりは、実際的な使い勝手から健在していると考えるほうがしっくりきます。美味しいレシピがその起源を問うまでもなく受け継がれることに似て。

トキワ荘も全室四畳半であったというのは面白いですね(もちろん意味合いは違いますが)。

珠光がなぜ四畳半したか、というのはわかりませんが、方丈をヒントにしたのかも、と僕は思います。

(1丈は10尺なので、約3メートル平方メートルの空間が方丈となります。四畳半は畳が京間サイズですとだいたい方丈くらいの広さです。)

珠光は一休宗純に参禅していたようで、その一休は維摩経におおきな影響を受けたそうです。だとすれば、珠光が維摩経に親しんでいたとしても不思議はない。

維摩経の主人公である維摩居士が住んでいたのがまさにその方丈でした。あるとき、維摩居士が病気で寝ているので、お見舞いしようと文殊菩薩とその仲間が訪ねたとき、全員がその狭い方丈に収まったという話や、維摩居士が菩薩やらを何千何万と召喚したのが方丈に入った、、、などの伝説があります。転じて、「方丈には全宇宙が内包されている」という考えが生まれたとか。

ところでこの伝説から僕が思うのは、ミクロコスモスと考えられるから方丈(とそれに基づくと考えた場合の四畳半)が尊い、のではなく、古代から、人間にとって方丈くらいのサイズが、ある種の生活をする上で、しっくり来るものであったという事実への興味です。

独りで起居するのに、広すぎるということはない。余りモノを置かなければ、狭すぎるということもない。

思考を表現するスペースとして、サイズがその邪魔になるということがない。

沈思黙考するのにも、のんびりするのにも、静寂を味わうのにも、適切な。(逆に、大勢でどんちゃん、わいわいするのには不向きですね。やはり多くても3,4人でまったりするのが吉。)

きっと、方丈ないし四畳半というのは、人間的なスケールで考えてちょうどいい空間だということなのでしょう。

(とはいえ、戦国の大名にとっては異例の、前代未聞の狭さであったと思いますが。ところで当時の農民や下級武士?やらはどのくらいの広さの部屋で起居、生活していたのでしょうか?日本の僧侶には個室があった?瞑想部屋(?)として四畳半くらいの部屋を使っていたりした?

、、、珠光が維摩居士の伝説を知ったいたと仮定しても、それ以外に現実世界で、日常で、四畳半くらいのスペースに慣れ親しんでいたのでしょうか?)

現代にも通じる、私的な領域の雛形としての四畳半。

かつ、珠光の四畳半は一休を経由して維摩居士的な宇宙を内包するものとしての方丈に邂逅する。

この四畳半という広さと人間との関係性について、人類学的な研究などがあったら面白そうですが、寡聞にして知りません。

なんか不思議ですよね、四畳半って。