離岸で月釜(茶会)をはじめました、というと時折、何も知らないけど参加してもいいんですか?と訊かれることがある。離岸では間口を広く、けれど品格がある、という感じでやっていきたいので、当然お茶(茶の湯)について知らない人が参加していいのである。むしろ参加して欲しい。いつも満席にならずに困っているくらいであるし。
けれども、僕はそれでいいとしても同席のお客さんにとってはどうなのか、そのあたりはいつも気にしている。茶の湯ではお客さんも場をつくる構成要素として、時に亭主よりも大きな役割を担う。客が単に観客としてはいられない(ので、茶の湯を芸術と言って良いのかは疑問である。純粋な((ということの定義も難しいかもだが、一般的な意味での))鑑賞者が存在しない営み。それが茶の湯である。既存の形態でいえば客を巻き込むかたちで成立するパファーマンス型のアートに近いだろうか。)から、そういう意味ではお客さんも作法などをしっているほうがスムーズであるのは間違いない。
茶の湯の歴史のなかで型となった作法その他は、煩わしいといえば煩わしい。ただこれはゲームと一緒で、しかもゲームよりはそんなにしっかりルールを覚えなくともやっていける部分もあり、そしてまた作法=共通のコードを介してコミュニケーションできると便利である。
なんで車はくるまと言うのか、会話でいちいちそんなことを言い出したら会話が成立しないのと同じように、茶の湯の作法はいちいちなぜ?などという疑問を挟まずに、躊躇なく遅滞なく受け入れ、内面化してこそ、茶人たりうるのだ。
茶の湯を大成した千利休は「茶の湯とは、ただ湯を沸かして茶をたて、飲むばかりなり」といったという。僕もそのとおりだと思う。しかし、それでは茶の湯にならないのもまた事実だ。そこに茶の湯の謎というか難しさがある。
すべての約束事をとっぱらってただお茶をのんでもそれは茶の湯にならない(それがもし茶の湯として成立するならば、しかしそれは最高の茶の湯だといえるだろう。現実にそんなことが起こり得るかは別として)。
子どもが描く絵が一番純粋でいい、というが、大人はもはやそんな純粋な絵は描けない。大人が(仮に存在するとされる)「純粋な絵」を描こうとすれば、結局のところ、膨大な時間を費やした訓練の果てに、ようやく到達できるという具合だ。
茶の湯もそれと同じことで、一切の煩悩を取り去った何でもない一服は、弛まぬ茶の湯の修練の末に、到達する高みなのである。(たぶんね)
ただし、現代の茶の湯の状況はこのように単純ではない。というのも、実際茶の湯に求めるものが各人で全く異なっていて、千差万別玉石混交有象無象であるから。おそらく茶の湯をやっている人全員に共有されている「茶の湯のあるべき理想の姿」はもはや存在しない。
だから、このレッスンではあくまで一個人の、茶の湯の何ものも背負ってない者の、ほとんど戯言としてしか、機能しないと思う。第一僕は茶名も取ってないし、口伝も知らないし。単なる茶の湯の初心者が、全く知らない人に向かってそれらしいことを言う会である。
何でもないただの一服に出会うためには、きっと膨大な修練が必要だ。けれどその途上で、なんのため修練なのかを忘れないようにしないといけない。究極的には、通になるためでも、権威になるためでも、茶人になるためでさえなく、静寂に満ちた時空を他人と共有できるか、にある。(小乗ではなく大乗で。共有というのも幻想だがしかし茶の湯が一人でするものでない以上はしかたない。)
(美しい音楽に満たされた静寂)
けれども、それは途上に出会うそれらを安易に否定する道ではない。既存の権威を転覆する革命の道ではなく、今存在するかたちの傍らで、未来への小さな道標を、遺してみたいと思うばかりである。
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というわけで、一応茶の湯なんも知らない人向けの講座をやってみようと思います。経験者やいっちょかみ(冷やかし)は不可です。
具体的には薄茶席での客の作法、露地の作法(席入り)を実践形式で。
あとは座学。そもそも茶の湯とは?みたいな抽象的な話、、、の予定。
お茶お菓子つき。
投げ銭制でやってみますので、皆様の温かいお気持ち待っています♡
【離岸のお茶会のための練習(ゼロベース)】
10/26(土) 13時〜16時 @離岸
定員:6名くらい
参加費:投げ銭制
申し込み締め切り: 10/20
内容
- (離岸の茶会のための)客の作法 (露地含む)
- 座学(的なもの)
- お茶お菓子つき
参加御希望のかたは 氏名 電話番号 参加人数 を明記して、
【離岸のお茶会のための練習(ゼロベース)10.26】 に参加希望の旨、お知らせください。(「練習10.26」など略記で。。。)
以下のお問い合わせフォームかインスタDMもしくは電話(必ず留守番電話に用件を残してください)でおねがいいたします。