茶の湯とはなんぞ?
色々な考え、捉え方がありますが、今回は中国茶との比較で。
とある作家さんから中国茶(を茶の湯に組み込むこと)の示唆を頂き、最近勉強というか、飲み始めています。
5-10年前、たしか武蔵小杉の?、中国茶屋さんで飲んだお茶が美味しくて、しかしそれ以来全然飲んでなくて。
最近上記のヒントに加えて『中国茶のこころ』という本を読み、素晴らしかったので、あらためて中国茶の世界に飛び込んだ次第です。
さて、中国茶は味を大事に考えます。まあ嗜好品たるお茶やコーヒーはもちろん味が大事です。
しかし、茶の湯では闘茶という前史を踏まえ、味については不問というスタンスです。
これは結構驚くべきことではないでしょうか。
抹茶(濃茶薄茶)は嗜好品としての立場を捨て、茶の湯のフィールドにおいては、他のものと同格という扱いに退いているようにみえます。
茶の湯においては道具組、設えが大事で、かつ、「茶を飲むという行為そのもの」が大事であり、味については、価値として最上位にくるものではない。
いわば主従の関係が反転しているようにみえます。この価値転倒を可能にしたのは禅の思想や、時代背景など、
いくつかの要因が考えられそうです。そしてそこにこそ茶の湯の肝がある。
道具道楽はこの反転のいわば堕落した形態なのでしょう。道具は大事だけれどもそれに淫してはいけない。
飲んでも飲まれるな、というやつですね。
茶の湯が紛いなりにも数百年続いたのは、家元制度などにも因るところがありましょうが、この味を捨てたという思想の故ではないかとも思えます。
味は大事である。けれども大事ではない。
この意味をもう少し考え続けたいなと思っています。
さてここで問題になるのが、中国茶を茶の湯に組み込むという話。形式的にも、思想的にも、整えていかないといけません。