BLOG店主日記

法華経

雨曼陀羅 曼珠沙華 栴檀香風 悦可衆心

-序品

この経を受持し、若しくは読み、若しくは誦し、もしくは解説し、もしくは書写せば、八百の鼻(び)の功徳を成就せん。この清浄の鼻根を以て、三千大千世界の上下・内外の種々の諸の香を聞がん。曼珠沙華の香、しゃだいけの香、まつりかの香、贍葡華の香、はららけの香、赤蓮華の香、しょうれんげの香、白蓮華の香、かじゅの香、栴檀の香、沈水の香、多摩羅跋の香、たからの香、及び千万種の和香の、もしくは抹れる若しくは丸めたる若しくは塗る香を、この経を持たん者は、此間にとどまりてことごとく能く分別せん。また、衆生の香、象の香、馬の香、牛羊の香、男の香、女の香、童子の香、童女の香、及び草木叢林の香、若しくは近き若しくは遠きあらゆる諸の香をわきまえ知り、悉く皆聞ぐことを得て分別して誤らざん。

この経を持たん者は、ここに住すといえども亦、天上の諸天の香をも聞がん。パーリジャータカの花、コーヴィダーラの花、マーンダーラヴァの花、マハー=マーンダーラヴァの花、マンジューシャカの花、マハー=マンジューシャカの花、天上の沈香、栴檀の種々の抹香・諸の雑華の香、かくの如きの天香の和合して出す所の香を、かぎ知らざることなからん。又、諸天の身の香をかがん。五欲に娯楽し嬉戯する香り、忉利の諸天のために説法する香り、遊戲する香り、男女の身の香りを悉く遥かにかがん。

是人鼻清浄 於此世界中 若香若臭物 種種悉聞知

-法師功徳品

清浄な鼻は、衆生の匂いを知り、人々がどこにいるかを知り、大地に含まれた鉱物を知り、宝石や衣装や化粧品を知り、立っているか、座っているか、愛欲の楽しみに耽っているか、神通力を備えているか、すべて嗅覚によって知る、とある。

山林に入り、そこにどんな生き物がいるか。

妊婦の胎児の性別、流産するかしないか、分娩時の苦痛はあるかないか。

人の性格、情熱的だとか、悪意があるとか、偽善者だとか、心が平静であるとか。

あらゆる事柄を、匂いによって知ることができると、書かれている。

いわば嗅覚は第六感のようなもので、非言語的な情報を感受する器官だともいえる。

ふつう人間は、日常生活の中で、そこまで嗅覚を研ぎ澄ませることなく(=その能力を発達させることなく)生活するので、能くわからないが、嗅覚を鍛えるというのは、人が無意識のうちに取りこぼしている情報にアクセスできるということである。そうした鋭敏な感覚は、現代社会にあってはむしろ不都合なことも多いから、嗅覚は鈍磨させておいたほうが、むしろ都合がいいのかもしれない。

けれど、その鈍磨しきった嗅覚が、複雑で奥行きのある香りを嗅ぐことで知らぬ内に鍛錬されると、そこにはまた別の楽しさが待っている。

匂いが人の心理・情動に与える影響はかくも大きい。嗅覚はもっともケモノに近い感覚器官であり、人の本能を刺激し、揺さぶる。

だからこそ、日々他人との密な接触にさらされる私達は、匂いを消し、匂いを隠し、匂いを別の匂いで覆うことで、なんとかどうしようもなく揺さぶられる本能と折り合いをつけている。匂いを楽しむよりはむしろ匂いに蓋をすることで匂いと付き合っている場面も少なくない。

そのような消極的な匂いとの付き合いではなく、積極的に匂いを楽しむことといえば、香水である。

香りを纏うことは、衣服もまとうことよりも一層繊細な作業で、かつその人の欲望を表してもいる。

香水には様々な種類があるが、そのどれもが西洋で発達したもの(をベースとした文化)であるから、その文化外の文化を知るものからすれば、強いと感じることも多々ある(香水ではつける場所も肝心だが、安易に手首などに付ける人も多いのかもしれない、すれ違いに辟易するのは、匂いの安っぽさとはべつに、付け方の問題もあるだろう)。

ゆらすかおりの香は、香水のように、あるいはアロマのように、強くはない。むしろ儚く、やさしい。

その弱さにこそ、幽玄が宿る。

香りに陶酔するのではなく、香りによって心が整えられる。刺激やエロスはあくまでその静寂のなかに包まれている。だからその「弱さ」は退屈ではなく、むしろ焚きしめるたびに新たな発見があるような奥深さがある。

ゆらすかおりを紹介するときに難しいのは、いかに人々の「お香」のイメージを覆せるか、ということに尽きる。

それは製法からしてその他の市販のものとは全く違うし、今井麻美子の調合の術もある。

ゆらすかおりは香水、お香とは別の第三のカテゴリといってもよいくらいだ。

まあ騙されたと思って、一度使ってみてほしい。としか言えない。

なにせ体験しないとわからないものなのだ。