人を呼んで恥ずかしくない茶事をするには10億円必要だ、という人もあるらしい。
茶杓一つでも利休作なら数千万円なので、さもありなんともおもうが、1億円だってつぎ込める人はほとんどいない。
要するに、今茶の湯をしているほぼすべての人は、(そのような基準から言えば)わび数寄なのである。
利休は茶道人口の増加に伴って、竹の道具などを開発したわけだが、現在、まともなわび茶指南というのは存在するのだろうか。
せいぜい数十万円の茶碗しか買えなくても、そのなかでいい悪いはあるし、つまり名物というものとは無縁の世界においてもこれはいい、これは駄目みたいな価値基準をストレートにいう茶匠がいないのではなかろうか。
みんながなんとなく好き勝手に道具を組む時代において、一種の手本となるべき本その名もずばり『道具組の手本帳』があれば、茶の湯は外から見てもう少しわかり易いものになるのではないか、と思う。
持てるものに甘んじることなく、しかし持てるもので満足すること。毎年同じ道具の繰り返しに
その人らしさを見出すこと。
求めればキリがない道具の世界で、その泥沼を、私たちはいかに美しく泳げるのか。
切断を置くこと、切断をどこかに設定すること。
その断面の美しさこそ、茶人が目指すべき美なのである。