BLOG店主日記

プロセスとしての茶の湯

茶の湯は堅苦しくて嫌厭されているから、カジュアルにしよう!

作法とか、面倒だから省略しよう!

そのような考えに対して、僕もかつては是としていましたが、

だんだんと考えが変わってきました。

手順とか作法を省略すると、結局ただの茶飲みになってしまうのよね。それは茶の湯の面白さをほとんど全く台無しにしている。

一杯の茶をいかに荘厳するか。

そこに茶の湯のすべてがある。

荘厳なしに茶の湯はありえない。

人口に膾炙しないのは、堅苦しいからではなく、その荘厳が、不十分だからだと最近考えています。

よって、家で自服をするときにも、それなりの荘厳の舞台が整えられて然るべきと思います。

ただ、荘厳にも濃度があって、真行草に倣って言えば、茶事が真の荘厳、大寄せが行の荘厳、家での自服は草の荘厳になるかと思います。あくまで仮の分類ですが。

問題は草の荘厳について、まじめに考えられていないということです。

荘厳である以上、真と心としては同じでなければならない。

むしろ手順や舞台設定が省略されるので、むしろ荘厳の難易度は、草のほうが高いかもしれない。

だったらやはりちゃんと茶道を習って、茶事をするしかないか、、とは言いたくない。

茶道を稽古してそれを超えていけばいいのですが、抹茶臭さに染まってそれに気づかぬまま(というかそれこそが茶道なのだと思い込んだまま)死んでいく人生というのは嫌だからです。

それならば、まだしも抹茶臭さに染まっていない在野の、野生の茶の湯を発展させたほうが可能性は高いように思います。やっている人間からすれば微笑ましいような内容でも、そこには実存が介在する可能性が高い。茶人はそれを参考にして、自分の茶の湯をリフレッシュさせていけばいいと思います。

で、草の荘厳。

これは自宅用の茶箱をつくるか、マットを活用していくと、なんとか舞台設定ができるような気がします。あと和ろうそくとお香が、自宅では役に立つかなとも。昨今の中国茶がやたらおしゃれなので、そこらへんにヒントをもらうのもよいかもしれません。

ただ茶の湯はやっぱりおしゃれとは少し遠ざかっていたい。というかそれが本質ではないという前提で、組み込みたい。ギャルソンとcomoliの間。

道具としては茶碗、茶杓(これは一番お金をかけてください。)、茶筅、棗(もしくは薄器)、茶巾(清める手順は省略しないほうがいいでしょう。)、鉄瓶、炉、菓子皿(下手な菓子皿を使うくらいなら、懐紙のほうがよっぽどよい雰囲気です。なんかグレーっぽい懐紙とかあってもかっこいいかも、、とふと思うなど。)、黒文字。菓子切もだいたいのものより、黒文字のほうが安定したスコアを出せます。

これらにくわえて、草の荘厳ならではの道具が必要になる。

なぜかというと、普通のテーブルというのは大した雰囲気を作り出せないからです。いや、違うかもしれないけど、とにかく少し演出が必要です。

続きはまた書きます。