塵埋三尺吹毛剣
夜々神光射斗傍
ちりはうずむさんしゃくすいもうのけん夜々のじんこうとぼうをいる
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塵埋三尺吹毛剣
夜々神光射斗傍
ちりはうずむさんしゃくすいもうのけん夜々のじんこうとぼうをいる
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全身獨立劫空前
朕迹猶存一色辺
万丈寒潭光射透
月明驚起毒龍眠
全身独立す劫空のさき ちんしゃく猶存すいっしきのへん ばんじょうかんたん光いとおす月明驚起す毒龍の眠り
古殿深沈暁未開
虚堂智愚
月落江都睡正濃
波心牽動一絲風
断橋妙倫
凍餒百餘僧鳳凰 各展臘扇賀新陽
壁懸碧目紫髯老 瓶入氷肌玉骨芳
編茅包贈自然蕷 封圈寄來養老糖
白隱慧鶴
養老糖というのは実在した岡山県の菓子屋さんがつくっていたお菓子のようです。白隠慧鶴は静岡にいましたが、諸国を旅したときに出会ったのでしょうか。
http://www.city.soja.okayama.jp/data/open/cnt/3/9162/1/06.yoroto.pdf
『新版一行物上下』を参考引用文献として。
だれの為に、というような功利的世俗的な考えを飛び越えてただ無心に咲く花を、至上とする。
実際には進化の過程で子孫を残し易くするための機序として花の姿態はあるかとも思うが、それは花自身の知るところですら無いのかもしれない。
柳生宗矩の活人剣の一節に、
神うちにありて、妙、外に顕る、これを神妙と名付けるなり。たとえば一本の木に、内に神ある故に花咲き匂い、みどり立ち、枝葉しげるなり。
などとある。
世阿弥はかたちなき妙体、なすところのわざに少しもかからわぬ無心、妙花風、などを芸道の至高としている。
美しく咲く花を、見返りを求めずに万人に対して注がれる慈悲と解釈し、観音菩薩そのものとする解釈もあるようだ。
作為の臭みから逃れるというのは大事なことでーなぜならやはりその方が美しいと思うからだが、そこに至る道は色々にあるだろう。
禅では草むらは煩悩の象徴とされ、悟りの境地は冬の冷え枯れた景色によって表されるようです。
煩悩の否定、超克という意味で、冬の冷厳とした風情が好まれるのですね。
そうなると、春という生命の芽吹く季節は、欲望が首をもたげる季節でもあって、好ましくない。
ただ、その自然に備わった煩悩をただ否定するのではなく、自然な色気として受け入れてこそ、より高い境地にあると、この語は伝えているようです。
あるいは修行の厳しさを周りや他者に強いるようにして、場を冷え固まらせる。それも、悟ったようでいて、独善的な態度である。だから、自分には厳しくも、場を和ませたり、柔らかくすることができるのが、本当の覚者だ、という意味もあるのだとか。
平たく言うと、思いつめすぎてはいけないよ、、、ということでしょうかね。しかし、これは一度も思いつめすぎたことの無い人間が、軽々というべきことではない、とも思いますので、まあ、とにかくいろんな経験を積みましょうと、そんな落とし所で解釈しております。