BLOG店主日記

茶の湯にふさわしい着物とは 

着物のルールはなにやらいろいろ細かくあるらしい。

死に装束にはならないにしても、茶の湯になにかふさわしくないものを、それと知らずうっかり着てしまうこともあるかもしれない。

それを声高になじるような、馬鹿にするような人は、たいした茶人ではないから気にしなくてもよいと思うが(みんなの前で恥をかかせないようにこっそり注意してくれる人は良い人だ)、場に対する礼を失することになっているとしたら申し訳ないことでもある。

暗黙のルールは外からは分かりづらく、閉鎖的にみえるが、主客が一体となり心地よい空間・時間をつくるのが茶事茶会であるから、心がざわつくような違和感をあえて茶室に持ち込むことはない。

というわけで、ここでは基本的なチョイスについて、備忘録としてメモしておく。

なお、僕は着物については無知であることをお断りしておく。なので他所の茶会などに行かれる際は、席主や同席の人、周りの人や先輩にふさわしいドレスコードを聞いておくのが間違いない!

ちなみに離岸の月釜はとくに格式を定めていませんので、服装は自由です。

着物の種類

着物は大別して二種類の着物に分けられる。かたもの、やわらかもの。

かたものは織りの着物で、先に糸を染めて織る。紬や綿、麻などがある。やわらかものは白糸で織って、反物にしてから染める。原料は絹。図式すると

  • かたもの=先染め後織り=つむぎ、綿、麻=カジュアル
  • やわらかもの=先織り後染め=訪問着、付下げ、色無地、江戸小紋、小紋など=フォーマル


 茶の湯にふさわしいのはやわらかもののほうとされる。やわらかものは生地が体に沿うので所作がしやすいというのと、やわらかもののほうが格が高いので。

茶事茶会の格による選択

お茶にふさわしいのはやわらかもののうち、訪問着、付け下げ、色無地、江戸小紋などであるとして、TPOによる分類はどうなるだろうか。

ところで、この訪問着や付け下げというのは、単に模様の入る場所による分類である。織り方は(今回の記事では)考慮しない。

訪問着:裾に柄がある。かつ裾以外にも柄がある(衿・肩・胸・袖など)。柄がつながっている(着物を広げたときに縫い目をまたいで一枚の絵のようになっている)。初釜に良いとされる。紋はいれる場合はひとつがいいらしい。

付け下げ:柄の配置は訪問着とおなじようなものだが、柄がパーツをまたいでつながっていない。

色無地:三つ紋の色無地は一つ紋の訪問着より格上になる。

江戸小紋:柄により格がちがう。なかでも小紋三役(さめ、行儀、角通し)とよばれるものは色無地と同格。

格をランク付けすると以下のような感じだと思う。

  1. 訪問着一つ紋
  2. 色無地三つ紋
  3. 訪問着紋無し
  4. 付下げ一つ紋
  5. 色無地一つ紋
  6. 付け下げ紋無し
  7. 色無地紋なし=江戸小紋三役

茶会用にまず一枚、ということであれば、色無地一つ紋がオールマイティらしいです。ぼくも女性の色無地はシックでかっこいいと思いますし、帯をかえれば色々と応用がききそうです。

シーン別に使い分けるとすると、

  1. 訪問着一つ紋 →献茶式、初釜、格の高い茶事茶会
  2. 色無地三つ紋 →献茶式、初釜、格の高い茶事茶会
  3. 訪問着紋無し →それなりの茶事茶会、初釜とか
  4. 付下げ一つ紋 →それなりの茶事茶会、初釜とか
  5. 色無地一つ紋 →それなりの茶事茶会、初釜とか
  6. 付け下げ紋無し →各地の月釜、カジュアルめの茶事茶会
  7. 色無地紋なし=江戸小紋三役 →各地の月釜、カジュアルめの茶事茶会

だいたい以上のような感じでしょうか。

『礼装・盛装・茶席のきもの』(木村孝、淡交社)では口切りや目上の方が亭主となる場合には三つ紋がいいとありますね。(この本は女性と男性のことも書かれているので、いいです。)

しかし一口に茶事茶会といっても、格のありようは様々で、一番は席主や主催に訊けたら訊くのが間違いないでしょう。

個人的には、着物の格うんぬんよりは、「華美でないこと」のほうが、大事だと思います。地味なほうが茶に馴染むと思いますので。

帯その他については割愛します。

男性編

男の場合はまた全然違って、茶の湯の正式な着物は、無地のお召一つ紋とされています。

とくに鼠、紺、利休色など地味な色合いがいいです。

あとは男性だと無地紬も正式なものとして着ていいようです。これは人によるみたいですが。

新しい試みをしたい方には、上品で落ち着いた光沢のある、和綿手紡もよい選択肢です。

和綿の着物

染織家・永井泉さんによって和綿の美しさに魅せられてから、着物が気になっている。

着物のよいところは、美しいこと。

欠点は、(現代生活からすると)不便だったり、洋服より疲れること。これは僕が茶会のときしか着ないからで、毎日着るような人なら問題としないのかもしれないけれど。でもまあ例えばComoliのようなゆったりしてラクな気軽さからすると、それなりの緊張感はあるわけで。そしてそれが着物の心地よさでもある。

着物は一反の反物を無駄にしない。そういう潔さも美しいし、もちろん衣服としてみて美しい。ことにやはり東アジア人の骨格にはよく映える。あの形のせいなのか、男でも女でも、きらきらと輝いてみえ、一段二段格が上がるのは不思議なものだ。

永井さんは、和綿を栽培し、収穫した綿花から自分で糸をつむぎ、染め、反物を織っている。大地から一本の糸でつながるその制作工程は、そのまま永井さんの生き方であり、哲学であるかのようだ。

わたしたちはモノを買うとき、その背後にある物語にも価値を見出している。作り手の思い、工程、原料の選定。そうしたものは作品のオーラとなって、目には見えないけど、佇まいとして本物感を醸し出している。

永井さんはなんといっても、綿花から育てているのだ。しかもその綿花も修行先から分けてもらった伯州綿である。このスーパートレーサビリティは、強調してもしすぎることはないくらいの贅沢だ。僕らはその反物に含まれている歴史をすべてたどることができる。

お茶の道具は伝来についてとやかく言われるが、それもモノを超えたモノガタリを大事にする感性である。何百年も人から人へと受け継がれてきたものと同じく、永井さんの反物は大地から受け継がれてきた来歴に丸裸で触れられる。

茶の湯では所作のため、「やわらかもの」の着物が良いとされる。

綿などの、先染めの織の着物は、「かたもの」で、なにかと不都合もあろう。

けれど、それはそれで自分で点前を工夫したり、練習したりで、しのげばよい、と思う。

綿の着物、ことに和綿手紡ぎの着物はとても美しく、品があり、そして素朴な温かみもあるので、特に侘び茶などを標榜する茶には合うと思う。

少なくとも僕はそのように思うので、離岸主催の茶事茶会では亭主として永井さんの着物を着たいし、お客さんも、永井さんの和棉手紡ぎを着て参加していただいて構わない。むしろ着てほしい。

こうした細かな「アップデート」は、上からのお墨付きを待ってやるようなものでもないだろうから、草の根から勝手にやらせていただくとしよう。

しつこいようだけれど、この令和の同時代に、和綿の、手紡ぎの糸の反物を作っている作家がいて、それを着ることができるというのは、結構すごいことだと思う。